23/11/19 おいでませ、沼へ

日記

私が過去、強く没頭したゲームは、その全てが「物語性」の強いものだった。
そのコンテンツを消費し切ってもまだ、その世界に囚われている状態。

物語から受ける影響は、さまざまある。日常からの離脱、
現実からの逃避、娯楽による精神充足、などなど……。

そして、哲学――未来を指し示す指針の提示。理想の代弁と言ってもいい。
ある意味で、物語とは「理想の〇〇」のプレゼン、と言い換えられる。

未来における目標、到達地点。目指すべき”何か”。
自分では実現不可能でも、その思いを誰かに受け継がせる”熱”そのもの。

しかしテーマ性は、エンタメの方向性以上に「合う合わない」が激しい。
かなり相性に左右される、製作者の生き様との対話だからだ。

それゆえ、現代における作品は「テーマ性」だけでは、
大衆に普及しない。「知られてくれない」のだ。

ただ、創作者によっては「テーマ性」を優先することもあるだろう。
何を持って、その創作物はゴールしたと言えるか、の違いだ。

「作品の形で、世間に公表した」がゴールなら、その時点で終わり。
未来で忘れられようと、目的を全うした、運命を果たしたと言える。

「誰かの人生に影響を与えたい。印象に残ってほしい」が願いだとすると、
そのためには作品を知られる必要があり、発表だけではゴールといえない。

宣伝、大衆性の盛り込み、さまざまな力を弄して、
なるべく多くの人へ届くように努力する。

そして、先の未来で、この作品に影響を受けた誰かが現れるまで、
その運命は終わらない。ずっと続くマラソンのようなものだ。

ジブリでいうと宮崎駿、高畑勲の関係がわかりやすい。
大衆性をとった宮崎氏、作家性(テーマ性)を貫いた高畑氏。

もっとも、高畑氏があそこまで赤字を出しながら作家性を貫き通せたのは、
当の宮崎氏や、経営側の鈴木氏が、彼の才能に惚れ込んでいたことが大きい。

いやはや創作とは奥が深い。どこまでも、きっといつまでも、
考えることから逃れられないのだから……。

今日はここまで。

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