26/03/26 この世界は好都合に未完成

日記

小さい頃、私はピアノをよくやっていたが、今はめっきり辞めてしまった。音楽を聴くこと自体は人並みに好きだと思うが、弾くほうに関しては9年以上からっきしだ。たぶん好きでもない。

今思うと、あれほど「間違い」「ミス」がハッキリわかるものはない。教室でも練習でも、とにかく間違えないことだけを意識していた。

感情を込めるだとか、好きな音楽を弾いてみるとか、そんなことは一切頭になかった。

コンクールやコンサートでずっと頭の中にあったのは「間違えないこと」。だから終わった後は楽しさとか嬉しさよりも、安堵の方が強かった。ああよかった、間違えずに終われた、と。

実際、大人たちが評価していたのはそこだったと思うし、誰よりも自分はそこだけを意識していた。

だからこんなことになってしまったのだ、きっと。

♦ ♦ ♦

焦りを感じる。なにも出来ていない。時間だけが過ぎていく。エンタメに費やされていく一方。日記すら書けず、仕事が進まない。またスランプかな。あるいは抑うつ状態かも。

根本にあるのは「自分を信じられないこと」「自分を制することが出来ないこと」。私は私が成したことを「誰でもやればできること」とうっすら軽く見てしまう傾向にある。

(学校に行くという普通の人が簡単にできることすらできない自分がやれるのだから)こんなん簡単だ、と。

プログラミングについては多少の自信もあるけれど、プライドはそう高くない。底辺だって言われたらそうだろうな、と思うし。

やっぱり、一番嬉しいのが「理想系が完成した」瞬間で、他人に見せるのは二の次なんだな。だからこそバグ取りを至上の喜びとしている、というか。

基本、仕事を他人に任せないのもこの気質が影響していそうだ。頭の理想を現実化したいという欲求ジャンキーだから。完璧主義だが、それは他人からの指摘(というより否定)を恐怖していることの裏返しだ。

自分で納得がいっていないと、外部からの正論に耐えられない。

先日、ひさびさに強い希死念慮を感じた。毎度おなじみだけど、トリガーは自分の悪・怠惰を自覚すること。普段生きるために見逃している、ダメ人間の部分が強調されてしまうというか。

力が無いことがコンプレックスなのかもなあ。それは物理的な意味でも、権威とか威厳的な意味でも。どうも私は偉くなりたい願望が人より強いのかも。

それが強迫観念レベルの強さなのには理由がある。条件付きの愛だ。そうしなければ愛されなかった(厳密には嫌われる恐怖に怯えていた)からか。他人の関心を引き続けるには、努力や代償が必要であると。

やっぱやる気を生み出すには成果とか結果が必要で、成果や結果にはやる気が必要なんだな。確信した。井戸でいう呼び水みたいな。ハッタリで自信を得るゲームってワケじゃないけれど。

自分の中で期限とかを決めようと、迷惑がかかる第三者がいようと、焦れないっぽいのも自覚できた。いつまでもずるずると引っ張っちゃう。

私は制限があると輝くタイプの人間だと思っていた。クソ田舎、逃げ道のない実家、ひとりっ子&ペット無し。娯楽は本からテレビか映画くらい。

そんな環境で、過干渉の家族と暮らしていたんだから、イヤでも生き抜き方を覚える。適度な息の抜き方やサボり方、抜け道・裏技探しなどを、いつの間にかやっていた。

間違いなく、誰よりも、自分自身が「なにかを成さなければ生きる資格がない」と思っている。

条件付きの愛。自己肯定感。根拠なき自信。存在証明。どこか開き直っているようでいて、優しく真面目であることに固執している。自分は正しいのだと。ここにいていいのだと。だから許してくれと。

命乞いをする動物のように。社会へ懺悔する罪人のように。

だが、第三者を傷つけまいと、真人間になりすますことはできても……いつまでも自分を偽ることはできない。イド——欲求が期待を裏切ってしまう。

要するに。俺は俺のままで、存在を認められたいのだ。

根本的に、私は他人に関心がない。どうなってようが基本どうでもいいから。自分と何らかの利害関係者でもない限り、私が興味関心を向けるのは憧れた人だけだ。

「正直に生きたら、友人じゃなくなるのか」
「合わせに行かないと、社会はこんなにも苦しいのか」

違和感の核はここにある。私が持つ、息苦しさや閉塞感の本質。学校でも家庭でも、他者に都合のいい自分でいること、やりたいことをやれないコトが嫌すぎたのだ。

ルールだのマナーだの空気だの世間だの、そういったモノどもに心底飽き飽きしてたんだ。

当時の私はふがいない部分も、ひどい行動もあった。その点は今でも反省しているし謝りたいとは思う。それすらも自分のエゴだということは承知している。あくまでも気持ちの話だ。

とはいえ、私は弱い。孤独には耐えられない。できることなら、ありのままの自分に理解者が欲しい。

私が根本的に持っている願いは「幸せになりたい」だ。現実に幸せがないから空想へ逃げた、という節もある。……現実で幸せになれるのなら、それほど嬉しいことはないと思うし。

♦ ♦ ♦

不登校になったキッカケ自体はどうでもいい。問題だったのはその後だ。居場所と自己定義の不在化。

中一の俺にとって、家族と学校と親友と初恋を失ったとき、手元には何にも残っていなかった。これっぽっちも。

存在承認が消え去ったのだ。

全てが条件付きの愛だった。条件付きの承認だった。
「同じ環境だから」友達扱いされてただけだった。
「登下校が一緒だから」接触できてただけだった。
「点数が高いから」褒められていただけだった。

……後から思えば、別にそういうわけでもなかったと思う。なりたてのころ、友達は何人か連れ戻しに会いに来てくれたし。こちらが接し方を変えた(≒拒絶した)から、向こうも手を引いただけで。

それからの1年は、ナニカに接続しようともがく日々だった。
学校に戻ろうとしたり、/けれど、もう戻れない確信を持ったり、
心の熱に身を委ねたり、/されど、木っ端みじんにフラれたり、
祭りでウロウロしたり、/そして、未練がましさにめまいがしたり。

……ただ、これこそが自分の人類観の原点な気はしている。恵まれた人間は一度落ちないと理解すらできない闇。世界全てが敵に思えた視界。世界全てに拒絶されたような幻視。

レールから外れた人間にしか見えない世界があった。そんな偏見と世間から救われたときの視界を、ヤツらは知らない。

童貞を捨てた男は気が大きくなるとはよく言うが、逆もまた然り。……ああ、情けない。本当に、心底自分が情けない。この期に及んで、やっと自分が本当に欲しかったモノを知るなんて。

「あなたが好きだ/必要だ」と。「あなたはこの世界に居ていい」と。そう誰かに言って欲しかったんだ。血縁でもなく、打算でもなく、損得でもなく。存在の証明を、保証を、承認を、肯定を。誰かから受けたかった。

「ありのままの自分を好きになってくれる誰かがいる」と。

この世界は、誰もが誰かに愛される世界なのだと信じたかった。

でも、信じられない。”その確証がない”。それが、好きになってもらう努力を遠ざける言葉だったとしても。

———これは自分の悪癖だけど、何らかの抗えない欲求があるとき、自分はあらゆる手段でそれを実行に移そうとしてしまう。

その最たる例、根本的かつ最大の問題点はサボり癖。古くはトイレ籠もり、仮病、不登校となんでもズルしたがる。

気力不足というか、耐える力の不足というか。対策は「没頭できるモノ」。ノベルゲームとかプログラミングとか。

俺どんな人間にも報われてほしいんだな。オールハッピー症候群だ。でも誰かの幸せが誰かの不幸せ。二人が同じ人を好きになったとき、少なくとも片方は苦しい思いをすることになる。

間違った考え方だけど。自分を好きになる人間がいないっていうのは、不幸せを生んでいないという意味で正解なのかもしれない。

自分だけが、その例外。自分は苦しんでいい。不幸せになっても構わない。いや、それは違う。自分に課せられた最大のオーダーは「幸せになりたい」だ。それはずっと昔から変わらない。

でも、その言葉ばかり先行して、自分は何を幸せと定義するか分からなくなっている。理想と夢ばかりが込められて。これまでの不幸せと苦しみからの願いが入っていって。

もはや自分は「幸せ」を神聖視しすぎている。素晴らしい、いつか辿り着きたい理想郷として。誰かの幸せのため、誰かが不幸せになる世界。私はそれを醜いと思う。けれど蔑ろにはできない。

こんな世界を肯定できるとすれば、それは、自分が幸せな側に回ったときなのだろう。自分が嫌いだ。自分が大嫌いだ。人は好きだ。人間は大好きだ。世界は嫌いだ。こんな醜い世界は大嫌いだ。

なのに、まだ諦めきれない。夢を捨てきれない。

自分が分からない。自分の醜い部分ばかりが目について、何をしていても苦しい。自分にできることは、自分”にも”できることになってしまう。自信のなさは全ての物事を価値下げしてしまう。

報われないのが怖い。否定されるのが怖い。永遠に残る罪が怖い。人それぞれ、いろんな苦しみがある。きっと、学校に行っていた奴らにも、いろんな苦しみがあった。

欲しかった物。手に入らなかったモノ。選ばれなかった者。報われなかった者。結果が成功であれ失敗であれ、行動できた者しか次に進めないのだ。

結局、なりふり構わずグイグイ行くような、むしろ軽薄で相手の気持ち考えないような人間がうまくいってしまうのか。性格がちょっと悪かったり、攻撃的な人間のほうが成功してしまうのか。

……そんなもんではあるんだろうな、きっと。後から軌道修正できてしまうんだ。それに、自分だって「自分の幸せ」のために他人を使おうとしているクズだ。

俺はなりふり構えない。傷つく誰かを無視できない。それが自分なら、まあ、いい。ここで割り切れないんだ、俺は。自分は自分だからとか、多少自分を押し通すべきだと思えない。

だって、間違った人間だから。学校からドロップアウトし、レールから外れた人間だから。自己否定の根源、自己肯定のできない理由のスタート地点は、たぶんここなんだ。

そこから連なる全てに対して、未だ肯定ができていない。学校に行っていた方が幸せだったのかもしれないという後悔。未だ報われたと感じていない自分自身。

自分は何度も選択を誤っている。日常でも誘惑や欲求に負け続きで、自堕落な生活を送ってしまっている。

♦ ♦ ♦

自分でも分かっている。

太っていて、ニートで、親のすねかじり虫で、くだらない夢を追っていて、エロゲ好きで、アニメオタクで、パソコン君で、服のセンスが悪くて、童貞で、恋愛遍歴みそっかすで、

下手くそな文章ばかり書いて、現実を見ないで、ゲームばっかりやっていて、飽き性で、四六時中動画サイト見てて、用事がないと風呂も入らないで、部屋の掃除をほとんどしないで、金遣いが荒くて、パチンコ中毒で、

……キリがない。こんな人間を好きになるわけがない。自分のいい所なんて分からない。プログラムだって今はAIで事足りる時代だ。自分には何にもない。

これはきっと、自意識過剰なのだろう。誰も自分のことを見ていないし、好きでも嫌いでもない。でも他ならぬ自分が見ている。自分は、自分からは逃げられない。

自分は、他人を否定的に見ているのだろうか。その価値下げのブーメランで、他人の目線が気になっているのだろうか。

少なからずそうだとは思う。どんな距離感の人間でも(友人でも・家族でも)こういうところは嫌いだとハッキリ思えてしまう。

ネットの問題児とか、炎上に関わる人間とか、そういったものに冷ややかな目線は正直送っている。くだらない、と。

でもきっと、本人達にとっては許せないことだったり、譲れないことだったり、心からの行動だったりするのだ。話が通じない相手にも、その主張を成立させるにたるバックボーンはある。

いろんな政治家の引用で暴れている人もYoutubeの返信欄でレスバしている人も、本人なりの動機はあるのだ。自分だってなるたけ他人のことを否定的な目では見たくない。ほとんどの人は素晴らしいとさえ思っている。

自分と比べて、ではあるが。でも他人からのジャッジは気になるタチだ。どうしてなのだろう。……逆か。自分を否定しまくっているから、他人が怖くなっているんだ。

現状の自分は、他人に受け入れられるよう「自分のことを変える」のは欺瞞だと思っている。その思想の帰結として、自分は「ありのままの自分を誰かに受け入れてほしい」と願っている。

そんな態度の人間を、誰かが好きになってくれるわけがないというのに。根本にある思想は変わらないが、過程は変えられるかもしれない。

即ち、自分が変わるのだ。「相手のことを思いやれる自分」というありのままの姿に。

なぜ自分は自分を否定したくなるのか。しょせん自分はこんなもんだと思うことが、自分の肯定/承認/許容になっているから。

つまり。根の根の根の部分で、私は私という存在を許せない。理想の自分になれない自分を嫌いながらも諦めることで消極的に許容している。

もうわからない。———どうすれば、自分を肯定できるのだろうか。

♦ ♦ ♦

気付いたことがある。自分は誰も信用していないのではないか。いろんな秘密、いろんな隠し事を言いたくないと拒絶してきた。

親にも、友達にも。自分は、誰かを嫌いになることは少ないけれど、信頼することも少なかったのかもしれない。理由はいろいろ考えられる。嫌がらせとかナンセンスなことをされた経験とか。

他人に否定されることは怖い。トラウマもあるし、その対策として先に自己否定をしていた側面もある。

ならどうやって自分を肯定すればいいのか。どうやって「否定されること」を捉えればいいのだろうか。

きっとそれは、理想の自分の放棄。あるいは同一視の中止だ。夢みた自分にはなれないし、そんなものと比較するから卑屈になる。

でもダメなんだ。今の自分を肯定してはいけないんだ。仕事もできていない、まともな人間じゃない自分を。

あるいは否定を「場所とのミスマッチ」と捉えるか。これは俺の解釈ともかなり近い。

しかし、それだと自分は、何にもハマることのないパズルのピースみたいなものになってしまう。素晴らしい絵が完成していくなかで、自分というピースはどこにもハマらない。形がどこにも合っていない。

……そうか。知らず知らずのうちに、自分は今の自分をゴールだと、完成し(てしまっ)たものだと思い込んでいたのか。

もう変化したいが、できないものだと。できたとしてもそれは、自分の意志をねじ曲げるような、無理やりなものだと。

人間は変わる。ただしそれは、いい方にも悪い方にも。だからダメなんだ。自分だけは自分を嫌い続けないと。

今の自分は嫌だ。変わりたい。それが原動力なのに、そんな自分を誰かに受け入れてほしい。変わった後で受け入れられたとて、それは演じた役を気に入られただけに過ぎない。本当の自分はどうなる。

途上の、道半ばの自分なんて、誰にも受け入れられない。人は結果を見て動く。過程なんてみんなどうでもいい。多かれ少なかれ、人は日々変化する。人はみな旅の途中。なら結局、自分と他人は変わらない。

自分と他人が変わらないのなら、そのうえで幸せな方が正しい。自分は間違っているという結論に達してしまう。

……ようやく気付いた。私は「間違い」を受け入れられない。「未完成」を愛せない。「不完全」を許せない。それが最大の矛盾にして問題点なんだ。

少なくとも、私は他者を「完成」「完全」と思っている節は否めない。変化していく前も後も過程も、全てを含めて。

それはきっと、見えないからだ。不完全な部分、未完成な部分を、人はわざわざ外に出さない。競争社会において弱み・弱点を世間にお披露目する必要性は何一つ存在しない。

昔の過ち、若気の至りを、現代のネット社会は許さない。火種があればどこまでも遡り炎上する。この先どんな成功をしても、どんな変化が起きても、どんな成長を遂げても、いつまでも過去はついてまわる。

そんな世界で、自分はどう自分を肯定すればいいんだ。自分の全てを見ている自分に、隠し事もウソもごまかしも通用しない。不完全も未完成も、自分自身だけは嫌い続けなければ。

……無意識のうちに、自分はエンディングを求めていたのかな。不完全を、未完成を、愛する。相互理解はまやかしで、互いの勘違いに過ぎない。すれ違いながらも互いを認め合う。未完成であることを許し合う。

逃避癖、逃げ癖、ごまかし癖、ウソつき癖と向き合いたくなくて、条件付きの愛という仮説に逃げた。自分を傷つけていれば、自分が被害者になれば、変われないことの言い訳になる。

ああ、そうだ。自分は変わっていない。13歳のあのときからずっと、自認が中学生から変わっていない。

そして自分が求めているのは救済だった。完全理解なんて存在し得ない。物語が持つ力をあまりに神聖視しすぎて、それを他のコミュニケーションにも当てはめていたのか。

ならどうすれば、自分を肯定できるというのだろうか。

♦ ♦ ♦

自分。人類。未熟。不純。不真面目。悪。犯罪。愚かさ。———即ち、人類の業。私はこの不完全/未完成を嫌っていた。苦しみを産む業の存在する、この世界を憎んでいた。

みんなが幸せな世界を夢見ていて、しかしそれは理想に過ぎないと絶望した。

自分は自分に見られている。他の人では見えない全てを、自分が知っていて、それをコントロールできる。

だからこそ、自分は自分を厳しく扱った。なれない理想にしがみつき、永遠に追いつけないマラソンに執着してしまった。自分と理想のギャップに苦しみ、誘惑/本能に負けて自堕落になった自分を嫌悪し、否定した。

否定していれば、変われないことの言い訳にもなったから。自分はダメだから変われなくて当然だと。

嫌っていれば、悲劇のヒロインになりきれた。存在しない救済をただ待ち続け、泡沫の夢に溺れられた。

……以前、私は愛を理解だと定義した。それは違う。それは理想の話であり、けして届き得ないユメ。人はすれ違いながら繫がることができる。それは不誠実でもないのだ、きっと。

人と人の関係性なんて、日々変化することが前提の幻に過ぎない。感情や気分と同じだ。

知り合いが何らかの形で変化したとき、私はいつも悲しくなっていた。私はそれを、不変のものだと捉えていたんだ。

自分が他人を「完成系」「ゴール」だと捉えがちなのは、そういうことでもあった。変わらない自分を置いていかないでくれと。キミはどうか変わらないでいてくれと。

それはただの理想の押しつけでしかなく。不完全と未完成を許せないのは、それを怖がっているからだ。中途な自分に価値はないと。いや、ないならまだいい方で、マイナスの価値が付くかもしれない。

誰と比較しても、自分は劣っているように思えてしまう。行動しても、他人を傷つけたり、邪魔になったり、嫌な思いをさせるだけなのではと。

……今ならひとつ、言えることがある。愚かさ、業。それは醜く、苦しみを産むものだが、乗り越えることは、きっとできる。

解決すべき課題として扱えば。克服すべき壁として捉えれば。あらゆる業の存在を肯定できる。よりよい未来を創るためのステップとして。境界を超えるための準備として。

自分も含め、人間はそう大したモノじゃない。他人も間違うし、日々変化していく。愚かだし、間違うし、不完全だ。でもきっと、それを繰り返す。たとえ叶わずとも、ユメを目指して歩き続ける。

でもそれは、変わらないもの/変わろうとしないものを否定しかねない。それは嫌だ。それは今までの自分への、昔の自分への、この世界に沢山いる「今を変えたくない」者たちへの侮辱だ。

この世界を素晴らしいと思う人。インフラというあたりまえを守る人。日常を尊いと考えられる人。もう十分幸せだという人。変われない人。頑張れない人。それも含めて、私は肯定したい。

「不完全と未完成の肯定」は、ここ数ヶ月(いや数年?)レベルで自分が抱えていたテーマへの回答だった。自己肯定とか、創作への恐怖とか、人間嫌いとか、その辺の問題が一気に晴れた。

ただ完全な解決ではない。まだ全ての肯定には至れていない。変われないモノ。変わりたくない者。「非・変化」も含めた肯定。

自分の心に燻っている「不変を悪とする考え」に対抗できる理屈が欲しい。そのための理論武装がしたい。

人間は間違いを繰り返す。歴史と同じ過ちを何度も犯す。我々にもう進化の余地はない。これ以上完全には近づけない。これ以上の変化は「退化」に他ならないと理解する日が来るかもしれない。

そのとき自分は/人類は、未完成を/不完全を肯定できるのか。

あくまでも過程として、解決すべき課題・克服すべき問題として、自分や世界やあらゆるものの「未完成」「不完全」を肯定することは可能だ。

けれど、この理屈では先に行けない。変われないこと、変わらないことの肯定。変化に抗うこと。ただ世の変化に流されること。変化を重視しないこと。

きっとそれはただ変われないのではなく、変わらないことを選んだのだ。停滞ではなく維持を。放棄ではなく生存を。そして、その結論も、生きていく上で変化していく。

いろんな出来事があり、出会いがあり、心は形を変えていく。不完全なものは、完全という届き得ないゴールを目指して、ひとつひとつ歩んでいくしかない。

♦ ♦ ♦

……自分はまだ、完成をゴールに置いてしまっている。不完全や未完成を、そこに至る通過点と捉えてしまっている。

逆説的に、不完全と未完成を肯定できてはいるが、それ単体で存在を承認できているわけではない。

……きっと、完成も完全も、空想でしか成立し得ないんだな。現実は全てが中途なんだ。

ネットやSNSの発展で、完成した(ように見える)モノ、完璧(に見せてる)モノが沢山目に入るようになった。でもそのせいで、沢山の人が「自分は不完全だ」「自分は未完成だ」と悩むようになってしまった。

そのほとんどは偶像か空想で、都合の悪い部分や不完全な部分をうまく隠しているだけなのに。完全・完璧・完成はユメでしかない。全ては狭間であり、中途であり、未踏である。

……だから問題は、不完全の中でどう折り合いを付けるべきか。他者から見れば微々たる差でも、創り手からすれば忸怩たる思いの疵。

泣く泣く仕様をカットし、本来の想定から変化した成果でも、第三者から見れば”それ”が完成品。そのアンバランスさ。人によって異なる基準。何を完成とし、何を未完成とするのか。

私は全てに理想と夢を見ている、ロマンチストなのだ。世間は正しい。世界は正しい。私は間違っていて、私は合わせなければいけない。

そう思っていた。けれど違う。世間も世界も未完成で、常に更新されていく。それに合わせるというのは、きっと理想化された夢を追いかけるのと同じくらい大変なことなのだ。

全ての間違いは「幸せ」をゴールに置いたこと。そんな曖昧で、形のないものを目的として置いてしまった。「理想の幸せ」に夢を詰め込んで、そこに至るまでの過去現在を全て不幸せにしてしまっている。

このままでは、理想の幸せには辿り着けない。やはり、不完全を愛せる(許せる)ようになるには、どうすればいい? というところに帰ってきてしまう。

根本の原因は、他でもない自分が、自分に自信を持てていないこと。何をするにしても、自分じゃなくてもいいんだよなという諦念が頭をよぎる。

代替不可能な自分、替えの利かない存在になりたい。なのに誰よりも、自分が自分をそう思えない。

自分がいても居なくてもこの世界は変わらない。自分以外の誰かでも役割をこなせる。自分じゃない人とでも幸せになれる。

透明な自分。存在してもしていなくても変わらないもの。社会的視点、全体の正しさ、世間の正解に囚われている。かといって主観的な感性や苦しさを無視することもできない。

不完全でもいい、というのは指針になっても哲学にはなり得ない。そう思い込むための理由が、納得するための理屈が足りない。

何者かになりたいという問いへの解答は「自分になる」。

自信のなさ、アイデンティティの欠如に関わらず、自分は自分であり、それを受容すること、それが大事なのだろう。

他人に認められたいという願いに寄ってしまい、異常性やキャラクター性、優れた部分に固執してしまうといけない。今までの自分はそうだった。

まずは等身大の自分を受け入れてからでないと、何にもなれないのだ。それはいい。そこまではいい。

問題は、どうやったら「自分を受け入れられるのか?」だ。

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俺は若い年代以下の奴らが楽しんでいる様子自体が気に食わない。30歳以降であればそこまでは気にならない。それか、配信みたいな形で仲間外れ感が無ければ大丈夫だけど。

幸せな世界を共有できてないことを、人生楽しめてない惨めさを強く実感するから。そういう真っ当で正常な幸せを見ていると悲しくなってくる。劣等感で、頭がおかしくなってしまう。

リア充に対する嫌悪感の由来の一つでもありそうだな。妬み僻み、なんでお前は笑ってるんだという怒り。

ああ、そうか。相手が自分の全てを受け入れて欲しいと思っているように、自分も相手の全てを受け入れなければいけないと思っているのか。

それは根本として、自分が自分を受け入れられていないところに端を発している。

結局、ここも理想化してたわけだ。人間関係とは、互いの全てを受け入れ合うことであると。

不完全な世界を認めねばとか言っておいて、人間関係には完全性を求めていた。いいんだ、別に。少しくらい(あるいは多少)受け入れられないところがあっても。

一方で、自分は家族がいるだけ恵まれている。本当の意味で孤独なわけではない。

それがどうした。家があるだけ、金があるだけ、命があるだけ、幸せである。下を見ればキリがない。上を見ても果てはない。

比べられたくない。比べられたくないな。自分よりいい人間なんていくらでもいる。自分以上に立派な人間はたくさんいる。

そんな世界で、ほんの少しだけ、たった一瞬だけでも、自分が唯一無二であると思いたいだけなんだ。そうなりたいだけなんだ。それだけなのに……

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人間の強さは「偏り」が「多様」であることだ。

だからこそ、凡庸で幸せな在り方には吐き気と羨望を覚える。「普通」を体現した者に対するルサンチマン、劣等感。

ただ時代に肉体と精神が適合しただけでデカい面しすぎだろ、という苛立ちもあるし、かけがえのない顔、システムの恩恵を無意識に享受しすぎ、感謝の欠如みたいな部分に腹が立つ。

以前私は「愛」を理解と定義した。これを撤回する。愛とは、不完全さの受容/肯定なのだ。「バカな息子を……それでも愛そう」という名言の通り。

根本が完璧主義者なせいでいろんなところで苦しんでいる。もっと雑でもいいし、諦めてもいい。けれどさあ、それはもう敗北じゃんというのも本音ではある。

妥協の先には何もない、苦しみもない代わりに達成もないのではという諦念が邪魔をする。何かあとひとつ、こんな自分を受け入れるためのロジックが欲しい。

完璧主義が行きすぎて、間違い/失敗を怖がっているんだ。いや逆か。それが怖すぎて完璧主義になってるのか。

コミュニケーションで失敗したら、恋愛で失敗したら、仕事で失敗したら。噂が流れ、晒され、否定され、嘲笑され、誹謗中傷されるのではと。

人の内心を知る機会なんてそうそうない。なのにインターネットに流れる「内心」とされるものはあんなことになっている。

ああ、だからプログラミングが好きなのか。間違いを直して完璧に近づけていく作業。気質に合っているんだ。

かといって、だから間違いなんて気にせず好き放題やりましょう、人を傷つけるかもしれないけどお互い様だしノーカン!

……みたいに割り切れはしない。「間違えても生きていられる」ってことはこれまでの人生で証明できた。

次は「間違えても幸せになれる」を証明したいのに。それがどうしてもうまくいかない。

どうにか、間違うことを前提として、かといって開き直ることもなく、それでも行動できるようになるロジックが欲しい。

このままだと前に進めない。正しさに雁字搦めのまま、間違える人間だけが得をして、どんどん苦しんでいく。

それは転じて、自分が自分になるための答にもなるはず。自分が自分の欠点を含めて愛せるようになるための。

人とは違う部分(個性)を欠損、間違いに見出すってのは、なんかちょっと違う。建前カードバトル、ポリコレカードバトルに近い発想に思えてしまう。どちらか傷ついているか勝負、みたいな。

そこは結局下を見てもキリがないって点に尽きるんだよな。

———ああ、ようやく理解できた。

この世界は不完全で、未完成で、それが大前提。人間も愚かで、未熟で、大したもんじゃない。そんな世界で、完全に近いものを創る行為。自分にとっての「完成」を築き上げること。

だからクリエイターを尊敬していて、好きで、愛しているんだ。そして「安定」を支える数多くの見えない社会人にも。

そして、失敗・苦しみ・不完全・業からこそイノベーションは生まれる。それらは可能性そのもの。人間の強さとは「偏り」の「多様さ」。

間違いが存在していい理由は見つかった。そしてその上で”完全”がなぜ尊いモノなのかも理解できた。

次は、失敗すること・傷つけることを分かった上で、どういうモチベーションで行動すればいいのか。ただ生きている上でも行動していると解釈もできる。それはただの現状維持とも、ゆったりとした失敗とも言える。

今現在進行形で両親を傷つけていることは否めないし、ある意味では自分を傷つけている。

要は他人より自分を優先させるロジックが欲しいのだ。道徳(他者を不幸にするなというルール)に真っ向から反対することになるのだから、なにかしらの正当性、理屈がないと勇気が出ない。

例えば余命がわずかだとか、もうすぐ社会人になるみたいな、タイムリミット系があれば社会的にも受け入れられるだろう。

あるいは、恵まれぬ環境、逆境からの這い上がり。他者を傷つける正当性(バックボーン)を持つ、下層の人間ならいいと思う。

では、自分は。

……この期に及んで、正当性が欲しいってのは馬鹿げている。他者を傷つけることを、他者に承認して欲しいのだから、倒錯していると言わざる得ない。

どちらが悪いのだろうか。与えた傷に無自覚のまま進む者と、与えた傷を自覚しながらも無視して進む者。前者を羨みつつも恨んでいて、後者を蔑みつつも僻んでいる。

あれこれ書いているけれど、結局のところ私は誰かに「君は自分勝手に生きてもいいよ」と許可(承認)してほしいんだ。

でも、他人を傷つけていいという許可は存在しない。厳密には、そんなものを出せるとしたら自分しかいない。

大切なのは、選んだ結果/影響に向き合う責任を引き受けること。

私は私の人生に対してのみ、最終的な責任を負える。
親も、友人も、他の誰であれ、私の人生の責任を問えない。
そして私も他人の人生の責任を負うことはできない。

できるのは、自身の行動に伴い与えてしまった影響への償いだけ。

行動に伴うフィードバック、世界の反応から逃げない。積み重ねていく間違いに対して、誠実であり続ける。自分が行った全てのことに、当事者意識を持つ。

責任とは、つまりそれだけのことだと思う。

けれどそれは、どうあったって変化してゆく人間として歪ではないか。過去の過ち、若気の至り、世間知らず、無知、etc……

現代はそういったものを忘れてくれない。記録に残ってしまう。それすらも受け入れて、先に進むしかないのだろうか。

世間もまた間違う、もとい変化するものだ。倫理観、モラル、マナーなんてものは日々変わっていく。10年前の常識が今では通用しないなんてザラにある。

仮に10年後、拡散という行為自体が倫理的におかしいとされるようになったとしよう。「前後の文脈を引き剥がすうえ、発信者に全責任をなすりつける恥ずべき行為」として。

まあこの場合は、場の仕組み(システム)にも責任が分散するから少し様相は違うだろうけど……いま拡散を平気で行っている人間たちは本当に反省をしているだろうか。

きっと自覚なんてないだろうし、”アップデート”された価値観でもって、やいのやいの言っていることは変わらない。

自分が思うほど、世界は一個人にそんな厳しくも執念深くもない。しかしひとたび世間に注目されれば例外的に過去すらも漁られる。

今の世間が求めているのは清廉潔白さ、すなわち過去すらも含めた完璧さ。有名人は勝手に推され信仰され、いずれ罪がバレて踏みつけにされる。グロテスクだ。

ならば最初から、自分は不完全だとアピールしておけばいい。お前らが求めているような完璧な人間ではないと。それでも完璧になれるよう努力している、今を生きる同じ人間だと。

だが変化したからといって、過去からの連続性が途切れるわけでもない。同じ名前、同じID、同じ存在として活動するからには、過去は永遠につきまとう。

ネットの記録が消えたって、誰の記憶からも忘れ去られたって、結局自分が覚えている。認めるしかないんだ。自分には、消したい過去があると。忘れたい記憶があって。隠したい秘密があって。償いたい過ちがある。

それでも。それがあったから。それを忘れてないからこそ、今があるんだ。

不完全な過去あってこその現在。たりなさあっての今。傷ついたからこそ傷に向き合えた。欠けていたからこそ美しさを知れた。

過去(これまで)も、未来(これから)も、全てひっくるめて愛すべき私だ。

その行動の責任を私は引き受ける。自分は自分の成したことに向き合い続ける。

恐怖を自覚し、敗北を覚悟し、間違いだと理解してなお。
それでも先に進もうとする歩みを、人は勇気と呼ぶのだから。

……などと書いたところで、すぐ自分が変われるわけじゃない。自身の問題点とその解答を導けたとて、すぐ精神が成長するようなワケでもない。すべては狭間だ。

「自分は変わらないし、変われない」「答えを見つけたとしても成長できない」そんな自分すらも受け入れてしまったら、ダメ人間一直線。

されど、まずそれを認めない限り、先に進むことすらできない。

矛盾、葛藤、不安。それらと向き合い続けるしかない。まだ自分を受け入れられはしてないけれど、それだけは変わらない。自分は自分から一生逃げられないし、責任を取れるのも自分だけなのだから。

♦ ♦ ♦

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。こんなに長い文章を表に出したのは、たぶん始めてじゃないかな。

それと2ヶ月もの間、日記をお休みしてしまい申し訳ありませんでした。理由はここに書いたことが全てで、ずっと自分と向き合っていました。

「人間嫌い(人間怖い)」の理由を掘り下げていったら、自分が自分を許せていないことに繫がってしまい、それがかなり私の中核に近い問題点だったことが最大の原因だと思います。

仕事が思った以上に進まないこと、そんな中旅行に行かなければいけなかったこと、心から楽しめない自分、迫るタイムリミット、罪悪感など、いろんなものが自分の精神を蝕んでいました。

ここまで来たら解答を出せるまで戻らないつもりで、鬱状態と本気で向き合っていました。その自問自答と言語化を———過程も含めて———再構成したものがこの日記です。

読んで楽しいと思えるようなものでは恐らくないし、表に出すかどうかも非常に悩みましたが、ここまで来たら覚悟を決めるしかないなと開き直りました。みんなにも苦しんで欲しいし(本音)

人の振り見て我が振り直せ……というのはさすがに偉そうすぎますが、何かしら自分を見つめるきっかけとかになれば、それだけで十分です。

実のところ、鬱状態はまだ続いていて、自問自答も継続中だったりします。今現在は「普遍的な人間、平凡な人間の存在価値とは何か」を考えていますが、仕事もあるのでそこまで深掘りが進んでいません。

こちらも解答に辿り着ければ、また日記の形で表に出したいと思っています。その間普通の日記は出せないと思いますがご了承ください。どうせネガティブになっちゃうだろうし!

今日はここまで。

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