24/02/27 心のゆり加護

日記

ここ数日の日記が指し示すとおり、私はだいぶうつ気味になっていた。
現在は無事復帰したが、心の機微の変化をなるべく書き記しておきたい。

多くの大問題がそうであるように、発端はちょっとしたトラブルだった。
創作に対する解釈やスタンスの違いが招いたすれ違い、その程度だ。

と、冷静になった今なら思えるのだけれど。その当時は少し違った心境で、
「なんで人の作ったものをそんな平気に扱えるの?」と怒り心頭だった。

何の責任も無く、それこそ趣味やサークルの延長線で創作物を扱うヒトと、
本気でそれと向き合おうと努力し、何ヶ月も準備をしているヒトの違い。

私はもとから社会性がないしな〜と半ば諦めていたけれど、今回で糸が切れた。
いや切れてしまった。人を本気で信用できなくなってしまったのだ。

不思議なもので、私はどこにいってもコミュニティのマイノリティ側にいる。
過去に渡り歩いてきたどんな場でも、最後まで多数派のままだったコトはない。

それは6人ぐらいの小さい集まりでも、学校のクラスでも、趣味の場所でも、
必ずメインストリームからはズレた部分に腰を落ち着けてしまうのだ。

すべからく居心地の悪さを感じているのに、数少ない人とのつながりだからと、
関係を切るに切れずにダラダラと続いてしまっていることも多い。

……で、暇だからとNetflixで「LIGHTHOUSE」という番組を見ていたら、
「人の好きを尊重できないヒトとは縁を切るべき」という言葉が飛び出した。

この言葉に限らず、番組からはいろんなインスピレーションを貰えた。
若林さん、星野さん。本当にありがとう。エッセイも宝物です。

思い返すと、私の好きはあまり理解されないことが多かった。
カラオケで好きな曲を歌うときもよくバカにされたし、笑われていた。

一部好みが被っているヒトはいても、自分の半身とも言えるような友人、
受けた傷や趣味を共有し合える親友とは、未だに出会えていない。

自分のことを——たとえ肉親でさえ——理解してくれない、できないという事実。
他人に合わせなければ、自分は生きていられる資格がないという錯覚。

幼少期のそういった原体験が今の私を形作っている以上、仕方が無いのだ。
心の奥底……根底の部分で「生きる理由付け」をずっと欲しがっているのだから。

だからこそ「何の根拠もなく生きていられる」という精神性は、
私にとってカルチャーショックもいいところで。ひどい衝撃を受けたものだ。

そんな人間がこの世の大多数を占めていて、生きる根拠なんて持ってないらしいと。
私は今でも「生」に当事者感を持っていないし、人の顔色を伺って生活しているのに。

だが。感情を直接当事者にぶつけたところで、結局自分がいたたまれなくなる。
裏ではそんな行動もおもちゃにされ、笑いものとして消費され、またすぐ飽きられる。

感情にメンヘラというレッテルをつけ、お気持ち表明と意思を揶揄して。
理解とはほど遠い、全肯定と全否定の嵐が急速に吹き抜け、そして消えていく。

……結局のところ。本当の意味で自分を信じ肯定できるのは自分だけで。
もう少し自分の本心を押し出していかないとな、と私は思うのでした。

今日はここまで。

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