ここ数日の日記が指し示すとおり、私はだいぶうつ気味になっていた。
現在は無事復帰したが、心の機微の変化をなるべく書き記しておきたい。
多くの大問題がそうであるように、発端はちょっとしたトラブルだった。
創作に対する解釈やスタンスの違いが招いたすれ違い、その程度だ。
と、冷静になった今なら思えるのだけれど。その当時は少し違った心境で、
「なんで人の作ったものをそんな平気に扱えるの?」と怒り心頭だった。
何の責任も無く、それこそ趣味やサークルの延長線で創作物を扱うヒトと、
本気でそれと向き合おうと努力し、何ヶ月も準備をしているヒトの違い。
私はもとから社会性がないしな〜と半ば諦めていたけれど、今回で糸が切れた。
いや切れてしまった。人を本気で信用できなくなってしまったのだ。
不思議なもので、私はどこにいってもコミュニティのマイノリティ側にいる。
過去に渡り歩いてきたどんな場でも、最後まで多数派のままだったコトはない。
それは6人ぐらいの小さい集まりでも、学校のクラスでも、趣味の場所でも、
必ずメインストリームからはズレた部分に腰を落ち着けてしまうのだ。
すべからく居心地の悪さを感じているのに、数少ない人とのつながりだからと、
関係を切るに切れずにダラダラと続いてしまっていることも多い。
……で、暇だからとNetflixで「LIGHTHOUSE」という番組を見ていたら、
「人の好きを尊重できないヒトとは縁を切るべき」という言葉が飛び出した。
この言葉に限らず、番組からはいろんなインスピレーションを貰えた。
若林さん、星野さん。本当にありがとう。エッセイも宝物です。
思い返すと、私の好きはあまり理解されないことが多かった。
カラオケで好きな曲を歌うときもよくバカにされたし、笑われていた。
一部好みが被っているヒトはいても、自分の半身とも言えるような友人、
受けた傷や趣味を共有し合える親友とは、未だに出会えていない。
自分のことを——たとえ肉親でさえ——理解してくれない、できないという事実。
他人に合わせなければ、自分は生きていられる資格がないという錯覚。
幼少期のそういった原体験が今の私を形作っている以上、仕方が無いのだ。
心の奥底……根底の部分で「生きる理由付け」をずっと欲しがっているのだから。
だからこそ「何の根拠もなく生きていられる」という精神性は、
私にとってカルチャーショックもいいところで。ひどい衝撃を受けたものだ。
そんな人間がこの世の大多数を占めていて、生きる根拠なんて持ってないらしいと。
私は今でも「生」に当事者感を持っていないし、人の顔色を伺って生活しているのに。
だが。感情を直接当事者にぶつけたところで、結局自分がいたたまれなくなる。
裏ではそんな行動もおもちゃにされ、笑いものとして消費され、またすぐ飽きられる。
感情にメンヘラというレッテルをつけ、お気持ち表明と意思を揶揄して。
理解とはほど遠い、全肯定と全否定の嵐が急速に吹き抜け、そして消えていく。
……結局のところ。本当の意味で自分を信じ肯定できるのは自分だけで。
もう少し自分の本心を押し出していかないとな、と私は思うのでした。
今日はここまで。

