最近、各所で「正しさの圧が強まってるな」と感じている。
さまざまな点で感じるので、言語化が非常に難しいが。
“世間” というのは凄まじい力を持っている。ここでは、
「一定範囲の集団」における、多数意見のことを指す。
その多数意見は、集団に属する限り「必修」となる。
「知らない」ことは、すなわち仲間外れを意味するのだ。
社会に生きる以上、法律やマナーについて
知らぬ、存ぜぬ、では通せないように。
ある事柄についての意見を交わすとき、
何があろうと未視聴では許されないように。
「エアプに語る価値なし」だ。
しかし、凄まじい力、といっても「見える範囲での矯正」だ。
目につかなければ、向こうもわざわざ干渉はしてこない。
発信しなければ、君の意見は自分だけのものだ。
逆に、発信した時点で、君の意見は他人のものにもなる。
「エアプに語る価値なし」は確かに多数意見だが、
逆に言えば、ただの多数意見にすぎないのだ。
しかし実際はどうだ。肯定意見、稼いだ金額、支持者の数。
みんなが”正しい”と言っている方に、合わせておく。
『これを楽しむことは、正しいことです』
『これを楽しめれば、私たちの仲間です』
近年の「トレンド」には、そういう圧を感じる。
ゲームでも、アニメでも、漫画でも、映画でも。
感想や考察を楽しむために、忙しい合間をぬって
「覇権」とされるコンテンツを消費していく。
好きなコンテンツを100%楽しむために、
作者がおすすめしていた名作は、なるべく履修する。
多数意見のお墨付きで祭り上げられているので、
基本面白いのも厄介だ。逆にそう思えなかった時が怖い。
それは、集団から間接的に否定されたのと同じ、
「お前は多数派じゃない」という烙印そのもの。
「〇〇(※今話題の任意のコンテンツ)、面白くない」
という感想は、理由があったとて反感を買う。
「大多数の人に好まれるコンテンツを貶した罪」で、
炎上暴言待ったなし。吊し上げ魔女裁判の開廷だ。
――まぁ。ここまで書いてきたこと全て、無視していいのだ。
所詮は世間。所詮は流行。それを無視する自由もある。
そして大概、本当の意味で自らが没頭し、熱中できるのは、
流行に乗らず辿り着いた、本質的な趣味なのだろう。
今日はここまで。

