多様性。あちこちで大切さを叫ばれていて、なんとなく正しいことっぽいけど、
正直深くは考えてないんだよなって人が多いと思う。私もそのひとりだ。
SNSではもはや多様性の解釈バトルが発生し、その定義も人によってズレがある。
関連する用語も多く、なかなか直感的な理解には至らないのが現状だ。
正直にいうと、現状私は多様性という概念を完全にはつかめていない。
属性によらず人間は人間なのだと許容する、という話なら私は最初からその考えだ。
マイノリティが理解されないという話でいうなら、どの人間も誤解されまくっている。
人間は他人を誤解し、され続ける生き物だ。その度合いが大きいという理屈はわかるが。
配慮はできる。「具体的手段」については、大きな枠(国など)でゆっくり進めるしかない。
一市井の人間には、できたとしても個人レベルの配慮しかしようがないのだから。
例えばこの数十年で、歩行が不自由な方への配慮は形をなしつつある。素晴らしいことだ。
エレベータが大抵の公共施設には配置され、車椅子も貸し出しができたり。
その枠を超えた範囲の話については、私は語る言葉を持っていない。
なぜかというと、根本的に私にとって利害関係が無いからだ。
家族や恋人や子供、あるいは自分などがその当事者にならないと、
本当の意味で行動したいとは思えない。そこに意識を割く余裕が無いとも言えるだろう。
仮に、友達がそういう状況にいるとしたら、頑張ってねと声をかけるだろうけれど。
それと自分が行動するかどうかは、まったく別の話だと思ってしまう。
……これはひどい話だろうか。私にとってはもはや想像することしかできない。
もし当事者で気分を害したという方がいたらすいません。
属性を理由にした排斥・差別はいけないよ、というのが考え方の主軸らしいけど。
ならば個人の好き嫌いはどうなのかとか。それが力を持つ個人の行使だったらとか。
しがらみのない人間同士でも不和は起きうるのだから、完全な共存は不可能ではとか。
他人の好き嫌いや優先順位をコントロールしようとするのは、ある種の暴力になりうるとか。
いろいろ考えてしまうが、個人レベルでできるのは「会う人を許容する」ぐらいで。
そう簡単に世界は変わらないんじゃないかなぁ、と思ってしまうのでした。
今日はここまで。

