「必要は発明の母」という言葉がある。不便なことがあればこそ、
それを解決するための手段が生まれてくる、というものだ。
長距離移動のために馬に乗ったり車を作り出したり。
気温調節のために水をまいたりエアコンを作ってみたり。
数多の発明は何らかの願いがあってこそ生まれてきた、と考えると
現代において発明がなかなか出てこないこともうなづける。
現代に「必要」はほとんど残されていないのだ。「生存に直接関わるもの/衣食住」と
「暇と飽きを癒やすもの/没頭新鮮」のほぼ2パターンしかない。その2つの混合もあるが。
前者は日本で生きている限り最低限のものが保証されているし、
後者はインターネットの台頭によって、もはや可処分時間の奪い合いとなっている。
となると現代において何かを生むには、必要が必要そうだということに気付く(トートロジー)。
実際のところ、ほとんどの商品はこういった迂路を通って世に出てきている。
携帯電話の契約内容や税金の仕組みがいい例だろう。あれらは複雑だからこそ、
税理士やサポートセンターという職業が望まれ、生まれるわけだ。
しかし。昔であれば立派な仕事だった単純作業は、たった数十年で機械に置き換えられた。
とおからず複雑な作業、創作といった領域もAIなどによって侵略されるだろう。
そしてそれはディストピア作品で描かれがちな、わかりやすい価値否定を意味しない。
現代において風景画を描く選択肢をとる人は珍しいが、自由なように。
仕事をしたい人は仕事をし、暇を潰せればいいという人はAIが産んだ娯楽を享受する。
人間から仕事という概念が失われる時代も、そう遠い話ではないのかもしれない。
では、必要を見つけるにはどうすべきか。「物理的苦痛」の衣食住に関わるものと、
「精神的苦痛」の暇と飽き。それらを深く知るための手段とは何なのだろうか。
今日はここまで。

