生成AIに関する話題を見ていると、なぜだかは分からないのだが、
私の琴線に触れるナニカがあるのか、アレコレを見るたび怒りが沸いてくる。
不満の対象は、「AIそれ自体」や「使っている人」でもなく、
批判している側の人に感じることが多い。
法律がどうこうとか、そこら辺の話題はいったん保留。
真に不合理なルールならば、民主主義なのだからいずれ変わる。
ほとんどの人が怒っているのは、絵を生成AIの素材・参照元にされること。
なぜ素材にされると怒るのかというと、それが一種の完成品だから。
というよりは「芸術」だから、とするほうが正しいか。
試行錯誤、幾度ものリテイクの結果、現実に顕現した「創作物」。
イラストという媒体は、個人の世界観・芸術性を最大限発揮できる形式だ。
「自分が見ている世界」を再現し、あるいは誇張し、または妥協して。
そこには、作り手のアイデンティティ……価値観や判断が多分に含まれる。
それをただ再参照して”生成”するなんて、と反発を感じるのも不思議じゃない。
だが、未来においてAIに「誰かのマネをしろ」ではない形で——
眉の位置や眼の大きさなどを指定する、といった手法で絵柄を確立した場合。
それって普通のイラストレーターとなにが違うのだろう、とは思う。
私には、道具の違いにすぎないとしか思えない。
「自分で手を動かす」から「機械へ命令する」に変わっただけで、
その本質である芸術性には、なんら変わりがない。
映画監督やゲームディレクターと同じで、結局のところ「判断」には、
その人の価値観や好み——アイデンティティが反映される。
(上記職種も、対象の媒体を知り尽くしたうえで指示者となる人がほとんどで、
いざとなれば実働部分の実行が可能ということは付記しておく)
そも創作というのは、ある部分で妥協が必要になってくる。
時間のリソースは有限である以上、修正と改善も有限にならざる得ない。
個人との戦いであったイラストづくりが、AIとの戦いに変わっただけ。
理想へ近づけるため、幾度ものリテイクを指示する側になっただけ。
新たな技術の隆盛は、古い技術の否定を意味しない。
それは古今東西の「伝統」が示しているとおりだ。
AIが人間の仕事を奪うというのも、単なる生存競争の結果にすぎず、
「イラストを書ける人」が「的確な指示を出せる人」に置き換わるだけ。
前者もしばらくは需要が落ちないだろうし。というか、
「いらすとや」などの無料素材がパワポの素材需要を駆逐したのと同じだ。
……たぶんだけど「なにに怒っているのか」がわからないのに、
道具としてのAIを、シンボルとして否定していることが気に食わないのかな。
結局ラッダイト運動を繰り返すのか……という呆れと失望もあわせて。
歴史は繰り返す、とはよくいったものですね。
とりあえず、なににモヤモヤしていたのかが明確になってよかった。
AI革命の今後は、まあなるようになるだろうし。注視しつつ静観してます。
PS. “ChatGPT”や”AIのべりすと”といった、文字関連のAIについては、
なぜかこういった議論がでないのも腹の虫にくるが、これはまたいずれ。
今日はここまで。

