24/06/04 AI電TT

日記

生成AIに関する話題を見ていると、なぜだかは分からないのだが、
私の琴線に触れるナニカがあるのか、アレコレを見るたび怒りが沸いてくる。

不満の対象は、「AIそれ自体」や「使っている人」でもなく、
批判している側の人に感じることが多い。

法律がどうこうとか、そこら辺の話題はいったん保留。
真に不合理なルールならば、民主主義なのだからいずれ変わる。

ほとんどの人が怒っているのは、絵を生成AIの素材・参照元にされること。
なぜ素材にされると怒るのかというと、それが一種の完成品だから。

というよりは「芸術」だから、とするほうが正しいか。
試行錯誤、幾度ものリテイクの結果、現実に顕現した「創作物」。

イラストという媒体は、個人の世界観・芸術性を最大限発揮できる形式だ。
「自分が見ている世界」を再現し、あるいは誇張し、または妥協して。

そこには、作り手のアイデンティティ……価値観や判断が多分に含まれる。
それをただ再参照して”生成”するなんて、と反発を感じるのも不思議じゃない。

だが、未来においてAIに「誰かのマネをしろ」ではない形で——
眉の位置や眼の大きさなどを指定する、といった手法で絵柄を確立した場合。

それって普通のイラストレーターとなにが違うのだろう、とは思う。
私には、道具の違いにすぎないとしか思えない。

「自分で手を動かす」から「機械へ命令する」に変わっただけで、
その本質である芸術性には、なんら変わりがない。

映画監督やゲームディレクターと同じで、結局のところ「判断」には、
その人の価値観や好み——アイデンティティが反映される。

(上記職種も、対象の媒体を知り尽くしたうえで指示者となる人がほとんどで、
いざとなれば実働部分の実行が可能ということは付記しておく)

そも創作というのは、ある部分で妥協が必要になってくる。
時間のリソースは有限である以上、修正と改善も有限にならざる得ない。

個人との戦いであったイラストづくりが、AIとの戦いに変わっただけ。
理想へ近づけるため、幾度ものリテイクを指示する側になっただけ。

新たな技術の隆盛りゅうせいは、古い技術の否定を意味しない。
それは古今東西の「伝統」が示しているとおりだ。

AIが人間の仕事を奪うというのも、単なる生存競争の結果にすぎず、
「イラストを書ける人」が「的確な指示を出せる人」に置き換わるだけ。

前者もしばらくは需要が落ちないだろうし。というか、
「いらすとや」などの無料素材がパワポの素材需要を駆逐したのと同じだ。

……たぶんだけど「なにに怒っているのか」がわからないのに、
道具としてのAIを、シンボルとして否定していることが気に食わないのかな。

結局ラッダイト運動を繰り返すのか……という呆れと失望もあわせて。
歴史は繰り返す、とはよくいったものですね。

とりあえず、なににモヤモヤしていたのかが明確になってよかった。
AI革命の今後は、まあなるようになるだろうし。注視しつつ静観してます。

PS. “ChatGPT”や”AIのべりすと”といった、文字関連のAIについては、
なぜかこういった議論がでないのも腹の虫にくるが、これはまたいずれ。

今日はここまで。

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