これは明確に自分の悪癖だと自覚しているが、”キャラクターが立っている人”以外が印象に残りづらい。一般人としての人間・個別具体的な相手と積極的に絡まなさすぎて、本当に申し訳なく思っている。
その原因は「自分探し・自分という存在への関心」があまりにも強いためだと分析している。私自身の気質がまだまだ分からないことだらけなのに、他の人間に構うような余力が無いという感じだ。
ただそれは、自分大好きで仕方が無いナルシストだから関心があるというニュアンスではない。むしろ私はこの世でもっとも私が嫌いだという自負すらある。だからこそ原因や理由がどうしても知りたくて藻搔いているのだ。
同様に、私は人間という総体を嫌っている。好きの反対が無関心とはよく言ったモノで、それは即ち「興味が無いワケではない」という話だ。
原始的で普遍的な性質、本能から導き出される非言語的な情動だったりを知ることで、人間(ひいては自分)への嫌悪感が多少薄れるかもしれないと。
逆に偏見・バイアスが固まりすぎて、人間不信へ繫がっているフシはあるが……単純には捉えて欲しくない。私の人類に対しての感情は愛憎入り混じっていてかなりグッチャグチャなので。
そもそも、好きと関心はまた方向性が異なる感情だ。親しい関係性の人はもちろん好きだし、心の底から感謝しているが、興味があるかないかはまた別の話になってしまう。
自分の気質として、こちらから相手への矢印———便宜上「好感度」と呼称する———は、仮に関わりが無くなったとしてもずっと変わらない。温度感が変わらずそのまま保存されている。
今でも小学校時代の同級生とかみんな大好きだし。一度上がった好感度が下がりにくい気質なんだと思う。逆に「相手から自分への接し方が変わった」ことにかなり敏感で、ひとりで悲しくなってしまいがちだ。
好きなところや善いこころが一つでもあれば、他全ての嫌いな部分や相性の悪い部分にも目をつむれる。より厳密に言うと嫌いゲージ(嫌悪度)と好きゲージ(好感度)が並列的に成立しているイメージが近い。
その上で興味が湧くかは別の話だ。他人の人生ってのはなんであれ面白い。それはもう経験則としてよく知っている。でもそこを掘れるまでに超えなきゃいけない壁が多いし大きい。
現代は認識できる個人の数が多すぎて、ほとんどをモブとして処理しないと情報量でパンクしてしまう。何より自分の人生すらよく分かってないのだから、他人に興味を向けるだけのリソースが無い。
好きとは存在の肯定・関係性の許容の在り方(の一つ)。対して興味関心は存在の解析・好奇心由来の欲求に過ぎない。うまいこと両立するようなスタンスが見つかるといいのだけれど。
今日はここまで。


