26/04/12 たとえ間違っていると理解っても

日記

※本日記を読む前に、前回の日記を読んでおくことを強く推奨します

なぜ自分は正しさに固執していたのだろうか。不完全世界の肯定をしたというのに、なぜ未だに正解にこだわるのか。ピアノはキッカケに過ぎない。今もそこに執着し続ける理由が心のどこかにあるはず。それを探りたい。

なぜ自分は今もメンタルが弱ったまま、動くことができていないのだろうか。やるべきことは沢山あるのに、意志がどうにも働かない。自信や勇気の問題でもあるが、それだけでもない気がしている。原因を知りたい。

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私は前回、人間の強さは偏りが多様であることだ、と定義した。それ自体は概ね間違ってはいないと思う。そこで出てきた新たな疑問。

「普遍的な人間、平凡な人間の存在価値とは何か」。

とくに先日旅行に行ったときに感じた、リア充たちへの怒りは言語化するとそういうところに繫がる気がしている。

ルサンチマンを拗らせただけに過ぎない、と切り捨てられる感情ではあるのだけれど、もう少し深掘りしてみたい。

きっとそれは、安定性と接続性なのだろう。まとめて社会性と呼んでもいい。これまであったものを、これまでどおりに続ける力。人と人をつなぎ、調和し、偏った部分を均していく意志。

……自分のため、他人を助けることが、葛藤なくできる精神。

偏りとは分布に過ぎず、また平凡な部分とのグラデーションに過ぎない。私にもふつうの部分はあり、彼ら彼女らにもきっと偏った部分はある。

自分がムカついたのは「考えてなさへの無自覚さ」のほうなのだろうか。動物を囲みスマホを向け見世物として消費し、ストレスを与える傲岸無知さや、自分のような人間に目もくれず、幸せをまき散らすカップル。

そういう、無理しないニュートラル(自然体)なスタンスがそのまま社会的に受け入れられている人間がどうも気に食わない。

平凡な人間というのは自分探しをしてないようだが、なぜそんなアバウトに自分を扱える(制御/操縦できる)のか?

それはたぶん、自分に興味がないのだろう(愛していないという意味ではない)。社会システム・世間とのズレが少ないほど、自分を見つめる必要性がないのだ。

軽いチューニング、ちょっとの我慢で社会に接続できてしまうから。

「なぜかできる」人間は「なぜかできない」人間のことが分からない。ゆえに構造上無自覚にならざるを得ない、というのは理解できる。思考と判断には情報が必要だ。知り得ないことは考えようがない。

当事者としての経験、そこから受けた精神的影響、その心理状態の変遷。ありとあらゆるモノを材料に、人は葛藤と成長を行っていく。

「なぜかできない」人間も「なぜできないのか」藻搔いているように、「なぜかできる」人間もきっと、できるなりの苦しみと向き合っている。

自分も両親とは確執があったし、今もまだ完璧な関係とは言い難い。けれど、それなりに恵まれた環境だったという自覚はある。

そもそも親が居ないだとか、金銭面での苦労があったとか、引っ越しが多かったとか、兄弟が居ただとか、そういう自分と異なる環境の解像度はどうしても低くなってしまう。

きっと無自覚に、そんな人たちにとっちゃ贅沢な悩みを口にしていることだと思う。

この話題もさらに相対化しようと思えばできる。日本に生まれた時点で恵まれてるとか、所詮ネットで喋れるだけの時間的余裕がある人間だとか、家のない人間もいるとか。

でも今ここでこうして生きている「自分」は絶対的なモノだ。相対化しようがない。

だからこそ、自分が、他でもないこの「自分」が苦しんでいる、という発信を無下にしてほしくはないし、その気持ちを(自分自身を含め)蔑ろにしないでほしい。

そしてこの話題は「思考しない」ことへの問題提起や断罪をしたいわけではない。コミュニケーションは所詮反射的なものに過ぎないと、私でもある程度分かっている。

動物的なじゃれ合い、互いの無害性の確認。楽しさを感じるのは当たり前だ。対して頭脳労働などと言われるとおり、思考は疲れる。ダルく思うのもまた当然。

形式はどうあれ、人間にはリフレッシュの時間が必要だというのも理解できる。

しかし、何も考えていないときというのは得てして他人に迷惑をかけやすい。それだけはどうか自覚して欲しいし、そこに自覚的であって欲しい。

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では、怒りはどこからやってきているのだろうか? なんでお前らは自由なんだ、楽しそうにしているんだという感情の動きの原因。

それは自分が我慢しているから、自由に振る舞えないからに他ならない。

自由に本来付随すべき、責任感とか葛藤とかリスクが釣り合っていないように見えてしまうと、じゃあ自分のこの我慢(苦しみ)は一体何なんだよ、と悪態のひとつもつきたくなる。

怒りの正体は「自由を選べる自由」への無頓着さと、我慢している人間への配慮の欠如。

お金とか時間とか才能とか、そういった自分を支えてくれている沢山のものに対する敬意の無さ、配慮の無さ、意識の無さにも腹が立っているのかもしれない。

現実的に考えれば、皆多かれ少なかれ我慢しているのは分かる。相互監視しながら圧をかけ合っている。

自分が傷つきたくないから、他人を傷つけたくないから、しぶしぶ本音/本能を抑えている。

これは本当に偉いことだ。何を当たり前のことをと思うかもしれないが、それを当たり前のように続けてられていることは、本来褒められてしかるべき。

———だからこそ、自由に見える人間を羨/憎んでしまう。

厳密には、自由に生きていることを「許可」されている人間を。
そこに代替的な欲望の発散や、欲しくて欲しくて仕方がない「自由の許可証」を見出してしまう。

だって誰も、自分が「自由」に動くことを承認してはくれないだろう。無視されるだけならいい方で、排斥されたり、否定されたり、蔑まれるだろう。

自分の心を開いたり、自分に正直に行動しただけで、鼻つまみ者にされてしまう。それが怖くて、自分の意志や行動を信じ切れない。

結局のところ。自由に生きたいくせに、世間の視線を気にしているのだ。

実際、他人の目を気にするってのは、目配り気配りみたいなメリットと表裏一体。それを捨てられるのか? わからない。そもそも捨てようとして捨てるのが可能かどうかすら。

“自由になりたい” “しがらみから逃れたい”とは言っているけど、実際に憧れているのは成功の部分。失敗した人間は見えないふりか、普通の価値を再確認するための踏み台にされがちだし。

まあ実際に見えていないんだろうけど。わざわざ表に引っ張り出されるときは底辺扱いありきだ。

本当の自由とはつまり、成功も失敗も過程で起きたトラブルも、その全ての責任を負うということ。

つまり覚悟が必要なのだ。責任のない自由は、ワガママと同じ。

そして。間違えないというのは善いわけではない。ただ、悪くないだけだ。間違ったっていいのだ、責任を取り、そして改善点として受け止めれば。

真の善とは、間違いから学ぶこと。過ちを忌避せず、教訓として捉えること。一度や二度の失敗で、人間の価値は下がらない。いつだって大切なのは「躓いた後、どうするか」なのだから。

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間違いであると分かっていてもそれを犯す人間に、それは間違っている!と指摘することは無意味だ。

ODでも自傷でも誹謗中傷でも荒らしでも何でも。本当に大切なのは「なぜそれをするのか」。

大抵は話を聞いて欲しいだけだ。自分のことを見て欲しいだけだ。

それが叶わないから、より強い痛みでごまかしたり薬でトリップしたり他者に責任を転嫁したり目立ちたがったりするだけなのだ。

苦しみから生まれた叫びを聞いて、うるさく思うのは当たり前だが、ただ口を塞いで静かになったところで解決したわけじゃない。

個性を武器にのし上がったとて、その結果得た地位と名誉と信仰に応じた社会性を求められる。

有名になるということは、多くの他人と繫がること、即ち社会への接続に他ならない。皮肉なものだ。その人間固有の尖りである個性こそが信仰を生むのに。

都合のいい尖り———大衆にプラスとなる信仰の対象たる「個性」だけは崇め奉るのに、都合の悪い尖り———大衆や社会にとってマイナスに捉えられる「個性」は徹底的に削られる(または隠される)。

有名になる・拡散されることに「本人の意志」があまり関係ないというのも病理のひとつではあるんだろうな。事後的に「大多数へ呼びかけた」ことに”された”つぶやきやポスト、内輪の会話なんて山ほどある。

性欲や肉欲で行動してそこに後悔がない(あるいは正当化している)人間、社会の歯車/世間のレールに無意識に乗って幸せそうにしている人間。

怒りのメカニズムが似ている。葛藤の無さとか責任感の欠如にイラついているんだろうな。

今の世間は「正解」を求めすぎていて自由さを見いだせない。現実もネットも。結論もといゴールがあらかじめ定められてしまっている、みたいな。

多様性だの好きなことで生きるだの言ってる割に、みんな正しさばかり気にしている。その不満を、推しなり創作なりに仮託して発散しているんだ。

偏りの多様さを人間の強さだと書いたが、結局「社会」に適合するためには偏りが均される。あるいは「社会」全体が偏るしかない。イノベーションとは多かれ少なかれそういった性質を持つ。

種族としての強みなんて所詮、数の暴力には叶わないということなのだろうか。なんて皮肉、矛盾なのだろう。

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「社会への恨み」「基礎人間への憎しみ」「平凡な人間の存在価値が分からない」

自分以外の人間も言語化していた現代社会の問題点だが、どれも通ずる部分がある。

この国で個性を殺されないためには、それが社会的にプラスであることを証明しなければいけない。そうでない人間は個性を殺し、偉い人が考えたレールに乗っていれば、それなりの幸せが保障されている。

だが、誰かが敷いたレールに疑問を持ち、かといって自分の個性にプラスの価値が付くわけでもない場合。

世間は個性(≒尖った部分)を徹底的に矯正しようとしてくる。それでは幸せになれないぞ、と。幸せそうにしている「平凡な人間」を目の当たりにするだけで、否が応でも間接的にそれを感じてしまう。

そしてまだ、社会/世間よりも自分の感性を信じ切ることができない。

結果の伴わない「尖り」は、ただの落伍者だ。字義通りの社会不適合者。だから自分が間違っていると感じてしまう。幸せそうな人間を正解と思ってしまう。

今の時代、よくも悪くも他人が見え過ぎていて、他人ばかりが目に入って、みんな自分を蔑ろにしすぎている。他人ばかりがチヤホヤされているようで寂しく、誰も自分を見てくれていないように感じてしまう。

歌やダンスが上手くないと誰も自分を見てくれない。死を試みたり自傷したりしないと誰も自分を見てくれない。

ゲームやスポーツが上手くないと、マッチョだったりグラマラスじゃないと、頭が悪いと、トークが下手だと、ブサイクだと、服がヘアがダサいと———キリがない。

他人を気にしすぎている。自分ですら自分を雑に扱ってしまう。現実で承認されている人間は、インターネットで苦しみを叫ぶ必要がない。友達が居るなり、恋人が居るなり、パートナーが居るなりすれば。

自分を見てくれる”誰か”が現実にいるのなら、ネットに承認を求めない。

自分のような人間は、レールを外れたことである種のメタ意識を持ってしまった。何が正しくて何が間違っているのか分からない。正しさすらも人それぞれだったから。

誰かが作った理想のなかで、見えない誰かが泣いている。叫んだ声すら消えていく。理想の中で生きる人間は幸せだ。他人の正解を気にする必要がないのだから。

なら、正しさの抑圧に負けてはじき出された社会のあぶれものは、どう生きればいいというのか。

自分の苦しみを減らすため、他人に配慮を求めるというのは、正当な願いなのだろうか? 間違いを許容しろというのなら、平凡な人間からしても同じ事は言えるのではないか?

思考力や注意力には人それぞれ限界がある。そのリソースを削ぐほどの価値が、自分にはあるのだろうか。

……自分は、それがたとえ正しい反逆/革命だったとしても、他人を押しのけて進むことができない。

自分と他人の価値を比較したとき、天秤が自分に傾かない。

それこそ、正しさ(道徳)に呪われている。多くの人間は、そんなに正しく生きていない。もっと雑に、間違いながら、自分本位に生きている。そしてそれを間違いだとも思っていない。

なぜなら自分は自分だから。快く思うなら悪を成すし、楽ができるならズルをする。痛み/快楽/あらゆる感覚の中心である「自分」は分離不能で、唯一無二。

感覚とはただそう”感じる”ものであり、管理できるような類いのモノではない。痛みを筆頭に、強烈な感覚の前では思考や理性なんて軽く吹き飛ぶ。

ただそう感じるという圧倒的な事実の前では所詮言葉も理屈も道徳も無力だ。他人も自分もそう。だから不完全なままでやっていくしかない。

他人にも”我”があることを想像/仮定して行動せよ、というのが道徳の大前提となっているが、その出発点である「自分」を蔑ろにしてしまうのは本末転倒の極み。

替えの利かない自分をもっと意識しなければならない。

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だが道徳の成立条件・大前提として「独我」が並列に存在しているという点がある。

つまり替えの利かない自分というのは他の人間にも言えてしまうし、そうなると数で勝る相手側のほうを優先するのがロジック・論理としては「正しい」ということになりかねない。

だからこそ、自身を優先するのは「道徳的に悪い」ことが前提で、それでもなお行動するのならそれなりの理屈が欲しくなってしまう。

しかしこれは前に書いた通り、傷つける相手に傷つける許可を求める行為に等しい。

だから結論としては、行動に伴う影響を自覚したうえで、かつ責任を取る覚悟があるのなら、悪いことをしてもいいという話になる。

他人を傷つけることは罪だが、たかが罪でしかないと割り切って。

それでも一歩踏み出せないのは、正しさへの固執(悪いことの忌避)が強いことがまず上げられるだろう。道徳心が強いと言い換えてもいい。他者を傷つけない価値観を強く内面化してしまっている。

なぜか。シンプルに他者が怖いというのはある。怒られたくないというか。

言い訳・噓・ハッタリには今更罪悪感も何もない。平気でやれる。それよりも「怒られ」の回避を無意識レベルで優先順位高くしてしまっているのだ。

叱られの可能性を察知すると、思考の全てが自己防衛のためのロジックパズルに切り替わって口八丁手八丁してしまう。

正当な理由で(ここでも正しさ)休んでいたんです、決してサボりじゃないんだ、と。本質がサボり魔でズル男だからこそ、でまかせ・ごまかしでなんとかしちゃう。

なまじ通用するぶんガッカリする/落ち込むんだよな、不思議なことに。不登校の時もそんな感じだった。

どうも自分は、自分が間違っているってことをなるべく自覚したくないのかも。厳密には、どんな理由であれ正解を押し付けられたくないというべきか。

思うに、今も今でわりと幸せではあるんだ。自分を見てくれる”誰か”がいない孤独感とかはあれど。だからこそ、自分を優先すべき正当性に欠けていると感じてしまう。

わざわざ他人の幸せを削ってまで/不幸にしてまで、幸せにはなりたくない。自分が道徳を内面化しすぎているのは、怒りに怯えがちな感性と適合してしまっているからだろう。

道徳的にしていれば、実利として「怒られにくい」。だからこそ「いい子」で「真面目」であることに固執した。

間違いを(間違いと分かっていて)選ぶには、正当性が帯びていないと難しい。自分には不正解でいい”理由”がない。失うモノもたくさんあるから無敵にもなれない。

性欲/肉欲人間に感じる怒りは、平気で間違いを犯しそこに後悔や葛藤がないからだろうな。歯車/一般人間に感じる憤りは、自分が我慢しているのに幸せそうなことへの憎しみが大きい。

つまりリア充への怒りとは、自分の生き方を(間接的に)否定されたように感じた故のものだ。自分だってそれぐらい、他人の目を気にしないで居られたらいいのにと。

それと、正されない間違いを許せない。未完成が未完成のまま許されることが気に食わない。

だから「不完全世界の肯定」を受け入れにくかったんだ。不完全を肯定してしまうと、自分の我慢が報われないから。なんで非道徳的なのに怒られないんだ、不平等じゃないか、と。

怒られる/否定されることへの強い忌避心が巡り巡って、間違い、不完全、未完成、非道徳への怒りに繫がっている。自分の行動原理を辿るとだいたいそこに行き着く。

普通の人だって怒られるのは嫌だろうし怖いだろうが、自分は”それ”をどうも必要以上に感じているような気がする。

これまで何万字も書いてきた話の結論は、つまり「肯定されたいが、否定されることがイヤだ」ということなのか。

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そうか。”人間嫌い”もとい”人間怖い”は、”否定されることが怖い”ということだったんだな。

否定をあまりにも強いリスクとして過大評価していて、肯定されるための具体的行動に移れない。否定をはねのける自己肯定感がないため、正当性(自分は正しいという思い込み)を帯びるしかない。

これはまあ、ネットの炎上を見過ぎたのも理由のひとつだろう。あるいは週刊誌的なマスコミの報道とか。自分も価値観によっては”間違い”側の人間だ。世間や社会の気分次第でいつ否定されてもおかしくない。

……現実には、否定とはただ「合わなかった」だけのことなのだろうけれど。

すれ違い、かけ違い、なんなら本人同士に問題がなくても環境や世間がそれを許さないなんてこともある。自分はそれを、世界/社会/世間全てからの拒絶と捉えてしまっていたのかもしれない。

そして別に、多少合わない部分があったところで、人は共に居ることができる。家族、友達、同僚/クラスメイト———なんであれ、相性によって適切な距離感というのはあるし。

この先何か行動するたび、それは正しい(正当性がある)だろうか、と考えたくはない。

前に書いた疑似承認(自由に行動していいかと他人の許可/顔色を伺う)みたいなもんだし、自分のしていることを正義と思い込んで行動するのは往々にして過ちを犯しやすい。

否定されること自体への対抗策を考えた方がよっぽど有意義だろう。では、どうするべきなのか。否定をはねのけるための理論武装はあるだろうか。

否定の全てが悪いわけではない。自分はこうしてるよみたいなアドバイスとか、失敗したときの改善策とか、そういう「真っ当な指摘」であれば甘んじて受け入れる。

ただ、それを越えて干渉してきて、自分のやり方(正しさ)を押し付けられるのはキツい。きっと根底には不安があって、自分と違う人を見ると否定されたように感じるのだろう。

安心したくて、自分の考え/やり方が正しいと証明/承認してほしくて、押し付ける。……書いてて思ったが、これ自分のことか? 同族嫌悪ってコト?

正当性を帯びる方向性で行動をしてしまうと、こうなる未来も否定できないな。

「正しくないと行動できない」人間にはなりたくない。否定の恐怖から、不安との葛藤から、抜け出したい。

そもそも、正しかろうと、間違っていようと、否定されるときはされる。

気に食わないだとか属性だとかばかりを見られ、真っ当に評価されないときもある。理不尽な世界だ。だからこそ受け身の準備はしておかないと。

自分は自分で他人は他人というコトは、道徳をも超越した「真実」なのかも。独我は端的に、あらゆる感性/本能の源たる自分そのもの。正しいとか間違いとかの次元にない、世界の前提たる”法則”に近いというか。

自他境界線をしっかりしないままでは、他人に振り回されるままだろうな。この期に及んで「かも」っていうのが自分の自信のなさを強く表している。

他人より自分を優先するべきなのは重々承知している。けれど踏み切れない。誰かを傷つける/迷惑をかけることが怖いんだ。

これは怒りや否定の恐怖とはまた違う。他でもない自分が、無意識な常識に削られてきた人間だから。

ああ、他人をなるべく傷つけたくないって思想自体も”正しさ”か。というより、道徳それ自体が他を不幸にするなというルール≒正しさなんだ。

結局、理想に囚われてしまっていて現実を直視できてないんだな、自分は。心臓が始まった時、嫌でも人は場所を取る。存在が続く限り、仕方ないから場所を取る。

人は生き続ける限り、少なからず相手を傷つけ続ける。それは間違いない。どうあっても(どう行動しても)誰かを傷つけることは変わらないのなら、覚悟と責任を持って、自分のために行動した方が得(善)なのだろうか?

やはり自信がカギなのだろう。正しさに依らず、自分は自分であるという確信。行動の結果を背負える覚悟、自由に生きるためのセルフ許可証。

それがあれば、他人の否定に怯えず/他人の正解に怯まずに、生きられるのだろうか。

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ようは「加害者になること」を恐れているんだな、自分は。怒りや否定が怖いこと、誰かを傷つけたり、迷惑をかけたくないこと。

責任論で言えば、自分の人生の最終的な責任は自分にしか背負えない。逆も然り、他人の人生の責任を自分が負うことはできない。

できるのは、行動の結果与えてしまった影響への償いだけだ。

正直、自分が傷つくことや否定をされることには、受け身も覚悟もできる。けれど、加害の罪を背負いつつ、それを自覚しながら行動する覚悟はまだない。

この世界には、私を含め傷つきやすい人間というのがいる。そういう人は、些細な(とされる)ことで心に受けるダメージが大きなモノになりやすい。

殊更に「苦痛」をアピールしてしまえば、普通とされる人々から敏感な人なのかな、コミュニケーションにならないな、傷つけたくないな、と距離を置かれ、より断絶が深まってしまうのも無理はない。

傷つきやすい被害者は加害者を生んで”しまう”。誰も加害者にはなりたくないのに。

苦痛や不幸といった、主観的なものが軸になっているからこそのねじれ。慮る相手でありながら、不幸を感じる主体(≒生み出る原因)でもある故のねじれ。

すれ違いと不理解から生まれる悪。傷つけた側が悪いのは分かりやすい。でも、傷つきやすい人間に一切の罪がないと言い切れるだろうか?

道徳は「他人を不幸にしない」ためにあるが、不幸を感じやすい人間……あらゆるものから「苦痛」を見出す人間がいたとき、そういう人は道徳的にどう扱われるべきなのだろうか。

加害者になるのを恐れているってのは、要は相手側に正当性があるときのことだ。与えてしまった傷とか、仕事の効率性とか、迷惑をかけてしまったとか。

そんなときは確かに相手が正しいから、意見とかは受け入れざるを得ない。だがそれは「お前は間違っている」と言われているのと同義だ。

大抵自分でも自分を否定しているから追い打ちをくらった気分になる。

結局、加害を恐れていたのも「否定の恐怖」の倒錯版だったってことか。

相手に感情移入して傷ついた気分/理由/原因を理解しようとしてしまうし、その後、反発として自分を否定されれば二重に苦しむことになる。

ネガティブは「未知」「分からない」からやってくるものだ。

これらを元から断つには知識と経験が有効に機能するが、逆に言えば、永遠に分かりようがないものはネガティブの温床となる。他者の気持ちであったり、性差であったり、モラルやマナーであったり。

いつまでもこういう話題の議論が絶えないのは正解が(分から)ないためなのだろうな。

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どう行動しようがしまいが誰かを傷つける事実からは逃げられない。どれだけ正しくあろうとも理不尽に否定される現実は変えられない。

だからといって、傷つけ合うのはお互い様だから割り切って行動しよう! とは思えない。

そんなリスクを負ってまで行動したいことが、ほとんどないから。

……そこか。自信の無さがどうこうじゃなくて、動機の無さが原因だったのか。

何を犠牲にしてでも達成したい、これを得る/感じるためなら全てを捧げたいと思えるような目標。

どんなに傷を抱えてでも、誰かを傷つけてしまうとしても、心から絶対に成し遂げたい夢。

にじさんじ聖地占領戦が終わって、燃え尽き症候群になったのもむべなるかな。一つの大きな夢が叶ったことで、他の叶えたい夢を見失ってしまったのだ。

ある程度、現状に満足してしまっていること。分不相応な目標だからこその諦め。幸せになりたいなんていうアバウトで中途半端な夢だからこその具体性の無さ。

いつからか、夢のため本気で頑張るということを忘れてしまっていた。素晴らしいものを目指す時の、無限に湧き出てくる活力を失ってしまっていた。

では、動機を取り戻すためにはどうするべきなのだろうか。ゲーム作り、テキスト執筆は、まあ夢ではあるのだけれど情熱がやや冷め気味だ。

恋愛関連も夢(幸せ)の内に入るとは思うが、最低限自分が自立できるまでは難しい。大人になるにつれて、現実的に物が見えてしまって、ある意味で夢を見れない。

自分の中にスタートの動機・モチベーションを見つけられないと始まらないのに。「したい」「やりたい」って強い気持ちが見つからない。欲求自体が弱まっている。

憧れも何もないし、正直もう未練がないというか、一度ゴールしてしまった感覚に近い。バケットリストの中身はそこそこあるけど、絶対叶えたいかって言われるとそうでもない。

両親より先立つのは申し訳ないという気持ちもあるので、積極的に死にたいワケでもない。ある意味で生きても死んでもいない。そこに居るだけだ。

ただ「好き」は、他の誰でもない自分が持つ強烈な感覚だ。そこには一点の迷いもない。

自分の好きは、自分が一番よく知っている。なんせずっと感じてきたんだから。好きなモノ、素晴らしいモノ———夢のためなら多少の否定なんてものともしない。

だが、好きなことだとしても少なくない身銭を切って大失敗の可能性を抱えた上でなお叶えたい夢かと問われると、素直にはいと答えることは正直できないし。

そういうリアルな条件を無視できるくらいの熱/動機は、いまの自分にない。

夢への熱量を取り戻せるか、あるいは別の形で熱を持てるか。好きなものはあるけれど、それを動機にできるほど熱があるわけじゃない。

現地参加型のイベントとかで、人の圧を強く感じることとも関係がありそうだ。みんな同じものが好きな(見に来た)ことは分かるのに、なんで辛くなるんだろうと。

少し考えたけど、たぶん自分の「好き」が相対化されてしまうからだろうな。同担拒否とも違うし、比較して好き度合いの強弱がどうこうという話でもない。

他者の視線が介在すると、好きに迷いが生まれてしまうのが原因かな。それを好きなのは正しいか? みたいな思考が走ってしまうというか。

同じものを好きなはずなのに、敵にしか見えない。自分と楽しみ方(好み方)が違い過ぎて。

スタンスの違いをモロに感じて、自分が間違った楽しみ方をしているように思ってしまう。

ただ一旦ライブとかコンテンツが始まりさえすれば、没頭できて気にならなくなる。演者とか映像とかに集中している間は、俯瞰視/他者への興味を忘れられるから。

やっぱり自分の性に合った娯楽との向き合い方というのはある。自分の場合、イベントや祭りなどの非日常系とは相性が悪い。

それよりは自対画面とか1対1とかのかなりミニマムな形式が合うように思う。ノベルゲームも配信も映画も読書も全部コレで、外部と熱を共有したい欲求が弱いのだ。

自分に明確な推し(特に、他人へ薦めるという意味合いの)がいないのはそれが大きい。

いや、それは趣味が通じる相手(話が通る相手)が居なかったのが原因の別問題だな。見た作品のパブサはしまくるし感想記事や掲示板は見まくるし。共有欲求自体はある。

思うに「個人の感情よりも場の空気が優先される状況」がストレスなんだろう。だから自分以外に2人以上居るような場だと何も話せなくなってしまう。

そういった場で空気を優先できる、安定性と接続性(≒社会性)を私は持っていない。結局これも自信の無さが原因なのだろうか。だとすればどうしたらいいんだ。

空気優先の状況は、うっすら怒られているような雰囲気に近い。そりゃ苦手だわ。そしたら自信があるかないかなんて関係ないな。どっちにしろキツいし。

「正しさの圧」の正体もこれなんだろうな。同調圧力による20%怒られというか。怒られているように感じるのは自分が間違っているという認識由来だけど。

ああそうか。熱量や動機すらどうでもよくならないとダメなんだ。そういう正しさとか内面とか成功とか世間とかを忘れられることが肝心なんだな。

夢/目標/好きは、きっかけ/初期衝動としては使えるだろうけど、現実を前にすれば憧れなんてあっさりと消耗する。

それよりも大切なのは、過程を楽しめるのかどうか。

苦しくないこと。没頭できること。時間を忘れられること。それが一番大切なことで、決して見失ってはいけないモノだったんだ。

YoutubeやXとかは時間が吹き飛ぶ悪魔のSNSだと思ってたけど、(Xはともかく)苦しみや葛藤から逃れられるというのはシンプルに救いだった。

自分ですら自覚してなかったけど、命の恩人といってもいいくらい。有意義とか生産性とか、そんなものはどうだっていいんだ。まああるに越したことはないけれど、娯楽なんてナンセンス上等。

「正しくなくていい」という一番大事な教えの先生みたいなモノだし、ね!

♦ ♦ ♦

答えは出た。
正しくありたかったのは、否定されたくなかったから。
自由に生きられないのは、他人の目が気になるから。
行動が全くできないのは、リスクを背負ってまで叶えたい夢がなかったから。
平凡な幸せに怒ったのは、我慢しているのが馬鹿らしく感じたから。
複数人の場が苦手なのは、個人の感情より空気が優先されるから。
そして、全ての葛藤を忘れるのは、何かに没頭できているときなのだから。

♦ ♦ ♦

やっとここまで辿り着いた。今現在の自分が動けない最大の理由を解明できた。あとは夢や目標を見つけ、それに没頭できるかどうかを探れば行ける。メンタルも若干回復しつつあるし。まだ無理は禁物な予感がしているけれど。

話題があちこちに飛んでしまって読みにくかったら申し訳ない。今までの思考の断片が繫がりまくって、まとまりない文章になってしまった。ただ、考えていた思考の断片が繫がりまくって楽しくなっちゃって。

ここまで読んでくれた人がいたら、本当にありがとうございました。何かの気づきや参考になれば、そうでなくても暇つぶしにでもなっていれば、この長すぎる自分語りを書いて公開/後悔した恥も報われます。

最後に「ゲシュタルトの祈り」を引用して締めようと思う。

私は私の人生を生き、あなたはあなたの人生を生きる。
私はあなたの期待に応えるために生きているのではないし、
あなたも私の期待に応えるために生きているのではない。
私は私。あなたはあなた。
もし縁があって、私たちが互いに出会えるならそれは素晴らしいことだ。
しかし出会えないのであれば、それも仕方のないことだ。

フレデリック・パールズ

今日はここまで。

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