人間観察が好きだ。
とは言うものの、特に人が好きなわけではない。
自分のことを考えに考えつくした末「他人はどうなんだ?」と
思ってしまった者が、行き着いた先である。
さらに言えば、他者のなかで観察する部分というか、理由が不純だ。
「なんだ、みんな悪いんだ」と
自分の”悪”を肯定するための、材料探しに必死だった。
そうすると、いつの間にか「他者を心の中で否定する」ことが癖になってしまう。
「今さらそんな古いゲームやるのはダサい」とか、
「人に考えなく話しかけるなんて、傷つけてる自覚がないのか」みたいな。
そういう「否定」は、一時的な安息感こそ得られるものの、
いざ自分が行動するとき、鎖となって行動を縛ってしまう。
「自分がこう思ってるのだから、相手も思ってるに違いない」
「私がこうしたら、相手に嫌われてしまう」
見事な引っ込み思案の完成だ。
誰も得しない。
けれど、今までの否定をちゃぶ台返しするのは、
自らの性格の悪さ、過ちを認めることになってしまう。
日増しに増えていく罪、返すに返せなくなった借金から
目を背けて、その日暮らしを続けるしか、ないと思っていた。
でも、もうこれ以上世界を否定したくない。
ここでいう”世界”は、主観的なものだ。
私が産まれた瞬間に生まれ、私が生きた上で”認知”したすべてのこと。
たった一度の人生なのに、世界に絶望したまま終わりたくない。
この自分ごと、この時代、この世界をどうにか「肯定」したい。
そのために必要なのは、人、コンテンツ、自然……
世界を構成する、あらゆるもの。それを肯定することだ。
今まで否定のために使っていた回路を反転させ、
“いいこと”探しのために、使用する。たったそれだけのことだ。
けれど、それだけで、主観的な”世界”は劇的に変わる。
自分が古いゲームをやろうとするときや、人に話しかけるとき、
いの一番に否定してくる「過去の自分」を振り切れる。
だから私は、今日この時をもって、あらゆる前言を撤回する。
そして、心の中にいた、過去の自分へ。
感謝とともに、別れを告げた。


