現実に世界観や傷を共有する相手がいない。価値観や苦しみを理解してくれる人がいない。そんなときに代替となったのがインターネットだった。個人ブログやSNS、ゲームや小説を見ることで「疑似承認」を得ていた。
「同じことを考えている人間が同じ世界にいる」という事実が、どれほどの救いになるか。似たようなことはいっぱいある。映画の感想、Youtubeのコメント欄で同じような経験はあるはずだ。
好きな映画をみんなが嫌っているとき、誰かがこっそり自分は好きだったと言ってくれたら。動画のニッチな面白いワンシーンを、誰かがコメントで面白かったと書き残していたら。それにどれだけの価値があるか。
反面「違うことを考えている人間が同じ世界にこれほどいる」ということもイヤというほど思い知らされる。理解しあえない人間、イデオロギーの共有が叶わない相手もいる。それ自体は相性の問題(厳密には環境/場の問題)なので仕方ない。
どんな形であれ、承認を得ようとするとき否定もまたついて回る。それが変えられない世界の摂理である以上、そこから先どう動くかは個人の価値観によって決められる。
私はそこで否定を受けたくないことに重きを置いてしまう。このサイトが始まって最初に書いた日記でも似たようなことを書いている。筋金入りのビビりなのだ。
何をしてもキャンセルされるこの時代と、今の自分の性格は相性が悪い。そんなこと重々理解している。いつまで経ってもゲームを創り出せないこと、日記を書くたびに怖くなること、その原因の一端がこれだからだ。
AIなんかにビビる以前の問題だ。私は人間に怯えている。「面白くない」だけで散々に炎上するような場所で自分はどう動けばいいというのだろうか。
その答えはきっと「腹をくくれ」「覚悟を決めろ」でしかないんだろうけれど。結局自分が作品制作を通して何がしたいのかを考えてしまうと、あまりよろしくない結果になる未来しか見えない。
自分が本当にやりたいのは「逆・疑似承認」なのだから。自分の好きを、嫌いを、考えを、思想を、傷を、価値観を、世界観を、それをひっくるめた全てを、誰かに認めてもらいたい。我ながらキショいが事実なので仕方ない。
まずそんな多くの人間に届くのかという問題はあるだろうけれど。仮に幸運に恵まれて沢山の人に届いたとして、そのとき必ず否定はされる。いや否定されるだけならいい方で、自分の表現に傷つく人も出るかもしれない。
ちゃんと伝わった上で否定されたり、価値観の相違が生まれるのなら別にいい。でも現実はきっと違う。誤読も誤解もあるだろう。何なら読まれず上っ面の印象だけで判断する人も出るはずだ。
そのとき自分が何を思うのか。わからない。自分以上に自分を否定する人間が現れるかもしれない。わからない。でもだからって何もせず終わっていいのか。わからない。だからこそ怖い。
たぶんだけど人間嫌いな理由の大部分もこれ由来の恐怖だし。「否定されること」。これに何らかの解答を出さない限り、私は前に進めない。
今日はここまで。
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