「愛」。愛とは何か。人それぞれいろんな定義があるだろうが、私の中では好きよりも関心のニュアンスが近い。
私は原則的に、誰かを好きになったり仲良くなったとしても興味を持つことは少ない。好感度と関心度がそれぞれ独立していて連動していないためだ。
友人も、家族も、好きではあっても関心がない。いまだ自分自身に強い興味があるから、他にそれを向けるリソースがないのだろう———というところまでは前回話したとおりだ。
しかしそんな自分の数少ない例外として、クリエイターは興味を持ちやすい。理由はいくつかあるだろうが、まずひとつ、作品に救われた経験があるから……というのは間違いないだろう。
好きな作品を深掘りする過程で、作者のパーソナリティや考え方みたいな部分にまで好奇心が及ぶのはしょっちゅうある。創作というのは多かれ少なかれ作家の思想が滲み出るものだからだ。
他には、作り上げるまでの大変さを理解できるからというのもある。分野は違えどクリエイターの端くれをやってる人間として、これはむしろ前提の話とも言えるだろう。創作を軽んじる人間が嫌いというほうが正確だ。
……なんか違う。どちらも間違いではないのだが、芯を食っていない、本質を外しているような感覚がある。そもそもクリエイターだからといって無条件に好きというわけでもないし。
まったくプレイしたことのないゲームや知らない映画の監督なんかには一切興味が湧かない。何なら履修済みの作品だとしても、よほど好きなモノでない限り作家に対して興味が湧くことは稀だ。
無論嫌いなわけではないという前提の上で話すが、イラストレーターさんに対しても尊敬はすれど関心はあんまりない。これは私が文章畑の人間だからなのかとずっと思っていたのだが、実はちょっと違ったのかもしれない。
ああ、やっと分かった。関心を持つ人とそうでない人の決定的な違い。それは「自分の傷を理解してくれたかどうか」だ。
精神的な悩みを共有したことによる同情・同調。友人や家族にも理解してもらえなかった心の傷、恥ずかしくて表に出せないような闇に寄り添ってくれたか否か。それが唯一にして最大の違いなのだ。
理解とは共感を伴うもの。解きほぐし、否定せず、ありのままを認めるもの。ただ認知するだけに留まらず、深く深く潜っていって始めて可能なもの。
誰にも分かってもらえないと精神の奥底にしまい込んでいた痛み。その孤独を取り除き、キミは一人じゃないと声をかけてくれるようなものこそが、理解なのだ。
……これが「愛」だな。私にとっての「愛」とは「理解」のことだったんだ。傷を理解して言語化してくれて、時には乗り越え方まで教えてくれる。苦しみの最中にあって共に居てくれるだけでも十分なのに。
これまでずっと、人との関係を表すとき「愛」を用いることに絶妙な違和感があった。友人や家族のことを好きとは言えても、愛していると言うには妙なためらいがあった。
それは自分の中で「彼らを理解しているか」「彼らに理解されているか」を告白するのと同義だったからなのだろう。ようやく腹落ちできて気分スッキリ。
今日はここまで。
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